私の子供の頃のお話しをシリーズ化

私は現在64歳です。
昭和を34年、平成を約30年生きています。

先日、『ちびまる子ちゃん』の原作者さくらももこさんが亡くなりました。
『ちびまる子ちゃん』は『三丁目の夕日』と並んで私たちが生きた昭和の時代を描き、ほのぼのとさせてくれています。

戦争が終わって10年目に生まれた私の世代はこの60余年でものすごい進化をとげ、素晴らしい経験をさせてもらっています。

家で食事をしながら”子供の頃の話”を嫁によくします。
私はありのままを話しているのですが、これがとてもうけるのです。
あまりにも時代のギャップが大きいため「信じられない!!」という感じで笑い転げます。
そこで“私の子共の頃は”をブログでシリーズ化したいと考えました。
どうぞみなさまお付き合いください。

まず本日はその第一段“テレビ”についてです。
私が物心ついた頃にテレビがある家はほとんどありませんでした。
私の村、約30軒の中にテレビのある家は“1軒”しかなく毎週金曜日の夜8時には力道山が戦うプロレス番組をそのお宅にたくさんの子供が見に集まっていました。

家の人たちはテレビのすぐ前でこたつに入って見ています。
そのずっと後ろで20〜30人私たち子供はきちんと並んで正座して見るのです。

私は小さな箱の中に人がいることがどうしても信じられず何とか“あの箱の裏側に行けないものか”とずっと思っていました。
2〜3年そんなことが続き、東京オリンピックがあるということでどの家にもテレビが普及していきました。
私は真っ先にテレビの裏側を見ましたが、そこにあったのは”ただの箱”で小さい人がいると思っていた私はガッカリしたものです。

その日、父からのお達しで“テレビは4時間以上続けてみると燃えてしまう”という言葉を私はひたすら信じ、休みの日などにテレビを見るときは必ず見始めの時間を紙に書いておき、“3時間50分になると1度スイッチを切り、すぐまた点ける”という無駄な作業をしていました。
素直だった頃もあったんですね……

テレビはしょっちゅう砂嵐画面状態になり、一番良いところが5分も、10分も見れなかったりはありましたし、家族で見るときのチャンネル権は父にあり、と言ってもNHKとRKKだけでしたが“家でテレビが見れるという幸せ”は何物にもかえがたいものでした。
今では色がついたり、薄くなったり、一人一台の勢いのテレビですが、あの頃のテレビという商品は私たちに多くの夢を与えてくれました。

今はめずらしいブラウン管のテレビ

昭和のテレビがある懐かしい食卓風景を再現した写真

本日もお読みいただいてありがとうございました。

感謝